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June 25, 2006

線路は続くよどこまでも(17)

KIKIの 長編エッセイ

1977年7月20日(水曜日)
スイス旅行( クライネシャイデックから再びグリンデルワルトへ)

 風が変わった。時折頬を撫でる風が急に冷たくなった。
いつの間にか眩しい日差しは消え、ユングフラウの頂に掛かった雲が山麓を静かに滑り降り、山全体をも覆い隠し始めていた。山が見えなくなってきたので、そろそろ丘を下りて駅前に戻ることにした。
「さっきホルンを吹いていた所に行ってみましょうよ。また演奏が始まるかもしれないよ」
私はふとそんな事を口にした途端、何となくアルプホルンの演奏を見せてもらえるという期待感がふくらんだ。

 土産物屋の軒下に3メーターほどの長い木製のアルプホルンが無造作に立て掛けられていた。辺りに演奏者らしい人の姿はなくて、先程の賑わいは消えていた。もう演奏はしないらしい。私は残念で仕方がないので、アルプホルンに近づいてそっと触れてみたりして興味があることをちょっとアピールしてみたが、私のアピールを気に留める人すらいない。今日のイベントはもう終わってしまったのだろう。
私が一人で店の前に留まってそんなことをしていた頃、母は土産物屋の年配の店員に、
「グッドアフタヌーン、マダム。プリーズ、マダム。」
などと声をかけられて、手をとって店の奥に連れて行かれ、高価な押し花の額を見せられていた。店員の熱心な売り込みにつきあって押し花の額を見たが、粗雑な感じで買う気にならず、これはどうですかあれはどうですか、それからこちらはいかがですと何枚も似たようなものを次々と出してくるのにも辟易してしまい、結局言葉がよく分からないふりをして、やっと断って出て来たのだった。
煩くつきまとわずにもっと自由に店内を見せてくれたら、記念に絵葉書か何かを買ったかもしれないのに、逃げ出したくなるような売込みは逆効果というものだ。だが、客の手をとって店の奥へ連れて行くのも純朴な店員の仕事熱心さゆえのことだろう。一昔前は観光地でよく見かける売り方だったから、不快と感じる程のことではなかったようだ。

 午後2時を過ぎると、登山電車に乗って下からクライネシャイデックに登ってくる観光客は少なくなり、ラウターブルンネンやグリンデルワルトへ下る人達ばかりになった。アルプスの山並はユングフラウの背後から湧き出した白いベールのような雲を二重三重とまとい、顔を隠していた。先程登った丘の上からアイガーを望んでいた時、左手に東側の裾野が広がり、遥か遠く霞がかかってモスグリーンに見えていた辺りがグリンデルワルトだった。
私たちは再びクリーム色とダークグリーンの二両編成のウェンゲルンアルプ鉄道(WAB)に乗り、昨日行ったグリンデルワルトへ向かった。ラックレールを歯車が噛む金属的音が足元から聞こえ、登山電車はゆっくりとアイガー北壁の直下を西から東へ蛇行しながら下り始めた。
アイガーの黒い北壁が目の前に迫ったり、遠ざかったりを繰り返しながら下って行く。岩陰に背の低いつつじが赤い花をつけ、青紫のスミレが咲いていた。割れ目が入っている雪庇が頭上に、今にも落ちそうに大きく張り出して見えていた。融けて垂れ下がった雪がごつごつした岩肌から今にも零れ落ちそうだった。白い雪に覆われた壁には雪や氷の欠片が転がり落ちて、幾筋も細い筋がついていた。

 車窓に青々とした森林が見えて来るとアルピグレンの駅に着いた。やがて眼下にグリンデルワルトのなだらかな草原が見えてきた。その右手奥にはヴェターホルンの大きな山が垂直にそそり立っているのが見えた。昨日は見ることができなかったその頂が車窓からよく見えた。垂直に立った北壁の上部をまるで大きなハンマーで叩き壊したかのように山が抉れて、小さな頂が三角帽子のようにちょこんと乗っているのだ。途中でぼっきりと折れた大きな木の切り株みたいな山の姿を見て母が言った。
「あんな面白い形の山だったのね。あれじゃ真下から頂上が見えないはずだわね」
私達が山に気を取られているうちに、電車はどんどん下り、眼下の草原が目の前に近づいて来た。やがて緑の草原の斜面に降り、氷河から流れ出た清流シュバルツリュチーネ川の白濁した流れを渡り、谷底にあるグルント駅に着いた。母が駅の周辺の様子を眺めながら言った。
「そうよ、この駅はね。昨日ピクニックした場所からアイガーの近くの谷の方に見えていた小さい駅だわね」
「あら、そんな駅が見えていたかしら。気がつかなかったな」
「線路がずっと続いているのが見えていたでしょう」
「線路は見えたけど、駅は見えなかったわ。お母さんは遠くが良く見えるから、驚いてしまう」
母は遠視なのだ。私も結構遠くを見るのは得意なのだが、母は私以上に遠くが良く見えるのだ。その駅からスイッチバックで後ろを先頭にして出発した電車は、シャレーの点在するなだらかな牧草地の中を進み、やがて終点のグリンデルワルト駅に到着した。

 駅前から南側のなだらかな傾斜のついた緑の牧草地の中に続く細道を下って、昨日撮り損なってしまった山並みの写真を撮りに行った。今日はちゃんと下調べをして来たので、どれがどの山か良く分かった。先程、電車の車窓から見えていた切り株のような形のヴェッターホルンは想像以上に遠く、村のずっと東の奥の方にうずくまる様に丸まって見えている。ここからは山の頂上は見えないからだ。それから一番眼前に立ちはだかるように迫ってくる岩山がメッテンベルクだった。その奥にシュレックホルンが隠れているがこれも見えない。その右側に少し控えて聳えている凄く大きい黒い岩山がアイガーなのだが、アイガーの中腹から上は途中のでっぱりに隠れてしまうため見えていない。アイガーの特徴の三角形の形とは程遠く、まるで巨大な牛の背の様に見えているので分かり難い。やはり山の麓に近づき過ぎて、遥か頭上を見上げているから頂が見えないのだった。アイガーの右隣の奥にユングフラウが見えるはずなのだが、白い雲に覆われていて見えなかった。私は何度もアングルを変えて、大き過ぎる山々が聳える風景を数枚の写真に分けて何とか続けて撮ってみた。上手く撮れたかどうか自信がなかったが、苦心して撮った甲斐があった。

 その後、ホテルや店が立ち並ぶ駅前の大通りを散策して歩き、土産物屋でアルプスのデザインの金属製のバッジや花模様が描かれた小さなカウベルなどを幾つか買った。私と母以外に通りを散策する観光客の姿はなく、観光地とは思えない長閑な街の佇まいだった。私は街角の店先でソフトクリームを売っているのを見つけて足を止めた。
「あら、ソフトクリームがあるわ」
私が下宿していたベルギーのゲントには、このソフトクリームを売っている店がないのだ。前年の冬にドイツに旅行した時以来、大好きなソフトクリームを食べていなかった。
「昨日は気がつかなかったな。おかあさん、アイスクリーム食べましょうよ」
「え、そんなの食べながら歩くの・・・・・・」
「ゲントで売っていないの、久しぶりに食べたいな。ドイツのミュンヘンで食べたのよ。凄く寒いのに、大人の人達がみんな歩きながらアイスクリームを食べていたのよ。空気が乾燥しているとアイスクリームが美味しいのよ。食べてみましょうよ」
私はソフトクリームを二つ買って一つを母にわたした。母は仕方なく受け取って苦笑した。夏の強い西日が当たって、見る見るうちに柔らかいアイスクリームの表面が融けていくようだった。それを急いで口に運ぶと、バニラとはこんな味だったかと首を傾げたくなるような意外なフレーバーの冷たいクリームが甘味と苦味を伴って口の中で融けた。
「うっ、変な味だわね、このアイス。バニラエッセンスを入れ過ぎているみたい」
母はそう言うと首をすくめた。私も顔をしかめて手元のソフトクリームを睨んだ。
「ああ、失敗した。ドイツで食べたのがすごく美味しかったから、こんな味だとは思わなかったよ、口直しにカフェでお茶飲みたいわね」
暫くの間、なんだかんだと文句を言いながら我慢して食べていたら、不思議なもので段々そのくどい味に舌が慣れてきた。母は通りを歩きながらソフトクリームなどを食べたのは初めての経験だったらしい。私も母と並んで何かを食べながら歩いたというのは後にも先にもこの時だけだった。

 近くのカフェテリアに入り、テラスのテーブルで熱い紅茶を飲んで一休みした。そろそろアルプスの山々とお別れの時が近づいていた。昨日はアルプスを見に明日も来ようね、と期待に胸がふくらんだ。だが、今日はもう違う。私達はこの素敵な地を立ち去らねばならず、再びここを訪れることはもうないに違いない。二人の旅の終わりに日本への帰国が迫っているからだ。紅茶を飲みながらグリンデルワルトの風景を眺めていても気分は沈みがちだった。明日はベルンのホテルをチェックアウトして、列車でルッツェルンに向かう予定だった。
「ルッツェルンで良いホテルが探せるだろうか」
ふと一抹の不安が頭を過ぎると尚更に、
「こんなに去り難い気持ちになるのなら、明日もアルプスに来る予定にしておけばよかった」
私はそんな思いに囚われていた。今日、帰る時になってこんな気持ちになるとは、昨日は全然予想できなかったのだ。
「ああ、もう一日来たかったね」
「そうね。でも、明日も今日のように晴れて、山が良く見えるとは限らないもの、充分よ」
幸いなことに、母はアルプスを充分満足したようだった。

 日が西に傾いて来た頃、ハイカー達が何処からか現れ、グリンデルワルトの駅に集まった。私達もアルプスの村を去る時間だった。クリーム色とセピア色のベルナーオーバーラント鉄道(BOB)に乗ってインターラーケン・オストへ向かった。グルント駅の直ぐ北側の傾斜の緩やかな牧草地を入日に向かって進んだ後、急にがくっと急勾配に変わり、アイガー直下の谷間に下りて行った。そして氷河が削った狭い谷の中をシュバルツリュチーネ川の流れにそって下流に向かって走り続けた。やがてインターラーケン・オストに到着した。
トゥーン湖畔の街インターラーケンはとうとう一度も散策する時間がなかった。ちょうどよく乗換えの列車があったので、去り難い思いを胸に抱きつつ、ベルン行きの列車に乗り換えた。
夕方、すっかり日が暮れた頃、列車はベルンに着いた。

( 続く )

Eiger001_1

グリンデルワルトからアイガー北壁を望む。

Grindelwald002_1

シャレーという山小屋が点在するグリンデルワルトの村。駅の南側に広がる緩やかな傾斜の牧草地。左奥に見えるのはアイガーの麓。

Grindelwald004_1

グリンデルワルトの東に聳えるヴェターホルンと大きな三角屋根のシャレーを背景に立つ母。

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